('A`)無気力人間T氏のさわやか日記
 
~大学は卒業したどこかに就職した~生きるのめんどくさい~
 


2006年10月6日を表示

日記

 昨夜は『私の嫌いな10の人びと』を流し読みして寝てしまった。また問題集が進んでない。

ところで、作者の中島氏はかなり合理主義者で(日本の規範に当てはめるなら)変人で、なかなか面白い。
以下、つい笑ってしまった部分を引用

「私は他人を励ますことが嫌いです。励まされることも嫌いです。というより、私は他人によって励まされることがほとんどない。励まそうという意志はわかるのですが、それは「いまから嘘八百を並べるけれど、それもあなたを思ってのこと、私と一緒にひとまず幻想に陥りなさい」という作戦の表明にほかならない。」

「つまり、けじめを大切にする人は、もはや誰も信じていない太古の習慣を後生大事に守ろうとしているわけではない。むしろ、その時代や社会においてなお懐かしさをもって歓迎されるだろう、その意味ですたれていない規範に敏感であり、そういう規範を見出し、そういう規範にのみ留まることにかけては、天才的な直観をもっている。
 こんなことはあたりまえなのです。けじめを大切にする人とは、社会から排除されても自分の信条を貫くことを提唱したい人ではなく、けじめを大切にしていれば、見ている人はきっと見ている、けっして社会から摩擦されることははない、と教え込みたい人なのですから。それを見越したうえで、彼らは「いまのドライな世の中では、こんなことは通じないかもしれない。だが、オレははやっぱりけじめのない奴は厭なんだ!」と叫ぶ。偏屈者であるとしても、なお社会から受け入れられることをしっかり計算している偏屈者なのです。」

(どーして子供が親に自分の悩みや困った事情などを話さないかという文脈で)
「親がむやみに心配するから、子供は「心配かけまいとして」何も悪いことは言わないのです。(略)「ただ、警察のご厄介にさえならなければいい」と言っている親も、ずいぶん頭脳の構造が単純ですね。ある社会体制において、何が掟か、したがって何が掟に外れるかは、がっかりするほど相対的なのに。警察とは、何であれその社会の掟の違反者を捕まえるだけなのに。」


うん、「この人はちょっと行き過ぎかも・・・」とワシは思う部分もあるにもかかわらず、大方においてキチンと理論は通ってるのでソレはソレでありかなと思うのだが、なんつーか、理論ではどーしよーも無い、エロ方面で言えば「何でだかワカランけど全てのことにに優越して『金網におっぱい』が好き」みたいな自分の中での理論による結論不可能な事柄についてはどう思っているのだろうか。
最近、教習を受けていて思うのだが、他の人は僕よりも運転が上手である。これは致し方ないことで、責任は僕にある。で、その際に感じることなんだが、「恥ずかしい」とか「次はもっと上手くやろう」と思ってしまう。なぜか思ってしまう。それは一種のアセりのように僕には思える。ただ、僕の頭の中では「バイク乗る時間は決められてるし、別に焦ったって仕方ねぇし、他人と自分を比べることはないさ。」と常々考えているにも関わらず思ってしまう。
このような正しいと思っている理論と心情が離れてしまった場合、どのようにすればいいのかわからず、仕方なく沈黙、というのが正しいのでしょうか?


ということを昨夜の寝入りばなに考えて寝た。


あ~、今日雨だからバイク教習休もうかな・・・キャンセル料とられるけど・・・明日も雨か・・・



10月6日(金)14:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理


(1/1ページ)