前の続き |
|
| 以前、物自体に、そのものとしての価値なんか無い、みたいな事を書いたが、その続き。 つまり、その物や物事の価値というのは受け取る側が自由に(自由といっても好き勝手ではなく、かなり環境とか育ち方に左右されるんだろうけども)決める。 それは、例えばワシがタマにTVで放送される手踊り王座決定戦とか見ても全く価値がわからないけども、踊りがわかる人が見れば「あぁ、この人はココが凄い」「この人は違う部分がもっと凄い」とかわかる。 つまりその、耳が聞こえない人が鐘の響きを(僅かにあるような肌への音の衝撃波を別とすれば)感じられないように、受け取る側の器というか素養というか、そーゆーものが重要で、それが無ければ、何がどのように素晴らしいかがわからない。それこそ、物凄い大音響の鐘の音を「あれ?なんか衝撃波を少し感じる」程度だったり。 では逆は? 以前、大槻ケンヂの本の中で、とうじ魔とうじの話を引用して、間違った歌の歌詞で感動してしまった事について、後からその間違いに気づいたとしても別に恥じることはない、確かに感動はそこにあったのだから、というような内容のエッセイを書いていて、ワシもそれは非常に正しいと思ったわけ。同じような経験があったから。 普通の人にはそよ風でも通風の人には激痛に感じられるように、錯誤や過大評価、過小評価があったとしてもそれは全く普通のことだし、別に恥じることではない。(そもそも日本で「恥じる」というのは 「皆と違う」事を恥じている事が多い。そうだ、アレだよアレ。畜群だよ。) むしろ人と同じ物を見て違うものを受け取る感受性が羨ましいよ。
で、結局何が言いたいかというと、(上っ面じゃなく)何に対しても、あれはアーで、これはこーで、それはこんなに凄い! と(利害とか一切関係なく)積極的に意味を与える事が出来る人が羨ましい。 もっと言えば好奇心と元気の固まりのような幼稚園児&小学校低学年のガキが本当に羨ましい。 ワシは「本当のところは」とか「世間的には」とか、自分の価値基準以外の所によりどころを求めてしまう。それはどんなに頭ではわかっていても、気にせざるを得ない。そのように育てられた、とか世間がそうだから、と言ってしまうのは簡単だが、別に責任を他に求めたところでどうにかなる問題ではない。 もっといえば、「『そのもの』として価値がない」とうのを根本原理として捕らえてしまった事が大きな原因かもしれない。何かに熱狂したとしても、最終的には「ま、それは(自分も含めた)誰かが与えた価値だから」とか「どうせ死ぬんだし」という事に帰結してしまう。何てつまらない。 なにか、それ(『結局は意味がない』と言う考え)を超える物はないだろうか。
| |
|
12月2日(火)18:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理
|