('A`)無気力人間T氏のさわやか日記
 
~大学は卒業したどこかに就職した~生きるのめんどくさい~
 


2008年10月5日を表示

ウォンテッドを見に行った

昨日、またI股君と青森にラーメンを食いに行って、五所川原に映画を見に行った。

ラーメン屋は、麺屋みつる、というところを目指していったが、電話番号がナビに登録されておらず、仕方ないので青柳一丁目という住所を手がかりに出発。

「目的地周辺です。音声案内を終了します」
という声が聞こえて車を止めたが・・・・海の真ん前。
ナントカコンクリートという会社がいくつかある所で、とてもラーメン屋があるような雰囲気ではない。一応冊子の簡単な略図もあったので、そこからはそれを頼りに30分程車をぐるぐる回して探したが・・・無かった。つか、略図が適当すぎて、自分がどこにいるのかすらわからない。どの程度の縮尺で、どの程度の道を「道」としか書いてるのかもわからない。急にめんどくさくなり、いつも通り虎の家にいって喰った。・・・ところでI股君も言ってたのだが、虎の家のスープが薄くなった気がする。ワシが前に従姉妹と来た時は大盛りを頼んだので、(麺が多いし、湯切りの時にゆで汁が多く付いたままスープにいれたから少し前と違う感じがするのかなぁ)と思っていたが、どうやら気のせいでは無かったみたい。

で、そこから映画へ。
映画までに時間があり、暇つぶしに困った。KOFも置いてないし。
映画については、途中で中だるみしたり、えっ?ソコでキスする必要なくね?と思ったりしたが、なかなか面白かった。最後がちょっと簡単にまとめすぎだろ・・・と思うものの、ポニョやカンフーピンポンよりはずっといい。序盤、主人公がストレスフルな生活をしている所が満載な描写だが、実績レポート位はさっさとあげろよ、と思う。


話は変わって、最近事あるごとに考えている事を。
物が、その物自体としては価値なんか持っていない、と心底思うようになった。
あの、価値観なんてのは千差万別、人による、というのは前々からなんとなくわかっていたつもりになっていたが、それが表面的な理解であったように今は思える。
価値ある物、というのは正確にはみんなが価値を認める物、であって、世界(神の視点)からしたら只その物が「ある」というだけで。(「ない」という事はない。本当に存在しないものに対しては「ある」「ない」をいう事は出来ないから。「(かつてあったけど今は)ない」という事なら出来るけど。)
人間に関しても、自分の事を立派だと思ったり駄目だと思ったりするのも、自分という存在に関しての価値判断で、存在そのもののはやっぱり厳然としてあって、だけども一般の社会が「価値」を中心に動いてるから、自分という物の存在に関して、自分の価値が(他人の評価によっても自分の評価によっても)「低い」と思う人が「生きづらい」と考えるようになるのではないか、と。
で、親子だとか夫婦だとか家族だとか、一般に「愛」とかを根拠にする関係というのは、自分に対する他人(妻だとか父親だとか)による価値判断の基準が何らかの理由(快感を与えてくれるとか、安らぎを与えてくれるとか、かわいいとか、またはひねくれたところではその人に尽す自分に酔っているとか)で価値判断基準が甘い事に気が付かずに、「ただ私の存在そのものを積極的に認めてくれる=愛」と勘違いしているのではないか、と。(甘い、というか、一般的な価値判断の外側に置く、という価値判断をしているのではないかと。)
・・・あれ、それだと前提として、愛等という物が全く存在しないか、なにかもの凄い崇高な価値判断に拠らないような究極の愛みたいな物が必要だな・・・

どっちにしろワシ性格悪いなぁ・・・



ところで、うみねこのなく頃にに出てくるベルンカステルの名前の元ネタが(たぶん)わかった。(ラムダデルタはひぐらしの鷹野三四ちゃんというは誰でもわかると思うが)
さっきトイレでレモンハートを読んでいたら「ベルンカステラー・ドクトール」というワインが出てきて、きっとコレだろう!と。・・・そんだけです。



10月5日(日)15:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理


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