('A`)無気力人間T氏のさわやか日記
 
~大学は卒業したどこかに就職した~生きるのめんどくさい~
 


勉強してない

ここ数日、勉強もせずに、手にいれたダンテス・ダイジ(雨宮第慈)の講話録を読みあさっていたのですが、とても面白い。
書いてある事を読んで(話し方が独特なので理解出来ないところも非常に多いのだが)朧気ながら理解出来る部分を突き合わせるとクリシュナムルティにやっぱり近い。(というか、本人が『ニルヴァーナとプロセスとテクニック』で「クリシュナムルティの本をもっとみんなが読んでたらこんな本なんか出さなくてもいいんだけどね」というような事を書いている。)

正直、講話録1の一番最初の部分を読んだ時、(あ、こりゃついていけんわ・・・)と思った。引用すると

ダン(テスダイジ)「じゃあ、おとぎ話するよ。ええとね、今から三万年前の話。」
渡辺「三万年前っていうと、アトランティスの時代?」


エエェェェ(´Д`)ェェェエエ
ナニソレ?
お笑い芸人のコントの枕のがもう少し自然だよ・・・
と、しょっぱなから脳がシェイクされるくらいの衝撃を受けて読み進めていったのですが、書いてある事はマトモ。

もうひとつ非常に違和感を持つ部分があるのだが、それが転生に関するもの。ダイジは対話が進められる中で「○○氏の前世は何ですか」と質問を受けて「うん、○○さんは釈迦だね」と極簡単に即答するんです。ワシはまた、エエエェェェ(´Д`)ェェェエエエっと思うんだけども、その後の巻を読む限りでは恐らく方便。輪廻転生を肯定も否定もしない。大事なのはその物事を知的に分解して理解する事でなく、その物事をどう認識したらその人が精一杯生きられるか、なんだと。大分端折ったけど。(本当は集合的無意識の世界ではウンヌン、とか言ってる。)
全編に渡ってずっと「君がどうかい?」「君が本当に納得して生きられればそれでいい」と言葉を換えて言い続けてるんですな。
だから、お釈迦様でもキリストでも池田大作でもいいんですが、そんな人達が言う事を頭から信じて、規律を守って、罪を告白して、お題目を一生懸命唱えて、その組織や社会の中で認められて、自分でもその気になったりしていって。でもその中で君が少しでも違和感を持ったりしたら、納得出来なかったら、やっぱりそれは違うんだ、と。
でもじゃあどうしたら本当に納得出来るような生き方がわかるんだ?と言う事になるのですが、ココがワシにはわからない。素直に見つめる、という事はどうすりゃいいのかわからない。恐らく、自己も他人も無いくらいの絶対的な物の見方を獲得する、という事(この言い方も少し違和感がある。上手く言えない。)だと思うんだが。
作中の言葉を使って説明するならば、例えば、末期癌を宣告されるとか、子供が死ぬとか、大失恋するとか、物凄い不条理が起こったときには、今まで抱えていた世の中の見方ではそれを解決出来なくなってしまう。その時に人はどうするのかというと、三種類あって、一人目は「まぁそんなもんさ」と流して新しい殻(物の見方)を見つける。
この人はその流した(諦めた)事に苦しめられる。ドンドン殻を増やしていって物凄く生き辛い。
二人目は世界を拒否する。発狂してオカシイながらも不安とか恐怖とかを感じる人はまだ「自己」があって、完全に発狂した人は、例えば「机の上にコップがある」というだけで1日が終わるような人。そんなんになる。それか自殺。存在の拒否。
で、三人目。ワシはココが理解出来ないのでそのまま引用します。
『そして三番目はそうじゃない。完全に自己っていうのが存在してない、つまり全部が同じように存在してるだけで、一つの見方に過ぎないっていうことを発見して、完全に止まってしまうんだ。見方そのものが止まってしまう。見方が止まった時、その時初めてね、人間が主体的に見るんではない、まぁ実在っていってもいいし、愛って言ってもいいけど、そういうものに触れるって言う方向に。それがちょっとでも自己って言うのが残ってたら駄目なんだよ。そうすると発狂の方へ行っちゃう。』自己が不安を感じて、不安が恐ろしさを生み出して、それに耐えられない。

ワシも頭ではわかるのよ。「価値観ってのは見方なんだ」て。でも実際にそれを本当に実感として感じる事が出来ない。
そこが一番わからない部分。


んで、あと「あ~そりゃそうだ」と思ったのが何点か。

世間一般で考えられている、こう何か不思議な出来事がバーンと来て、悟ったとか、安らかさとか、充実感とか体験するかもしれない。でもそんなのを声高に特別な体験として語るのは意味がねぇよ、と。コカインやLSDをやるのと何にも変わらない。そこにあるのは只なさけない自分から逃げたいという思いだけなんだ、と。

もう一つは、宗教は組織になると二種類の人間が出てくる、と。一つ目は純粋に宗教やる奴。もう一つはイデオロギーで宗教やる奴。(そうか、ワシが創価学会大嫌いなのは後者しかいないからなんだな、と思った)

後は・・・ワシが自分を駄目人間だと思うのは、やっぱり「良くなりたい」という事の裏返しなんだな、という事。やっぱり「良い」という価値観と「悪い」という価値観は表裏一体で、切り離す事が出来ない。で、ワシのはそのような「良い」「悪い」がある事がいい事なのか悪い事なのかもわからない。ほらまた出てきたよ「いい」「悪い」。価値観の入れ子構造だ。ただそこにある物事を認識するだけの事が何故出来ないのか。何もなくなってしまう気がする。


「お釈迦様すげぇ」とか「イエス・キリスト」すげぇとか「世界の池田大先生マンセー」とか、「ニーチェカッコヨス」とか、「一遍上人の小便最高」とか、どうしてもその教えを説く人を重要視&神聖視してしまいガチだが、不思議な事にダンテス・ダイジは別に神聖視する気も起きない。実生活で彼の本を読んでいる、というのは知られたらちょと恥ずかしい気がするくらいだ。もしかしたら本人もその部分(教祖のように見られないよう)に物凄く気を遣って話しているのかも知れないが。



6月6日(金)04:46 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理

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