('A`)無気力人間T氏のさわやか日記
 
~大学は卒業したどこかに就職した~生きるのめんどくさい~
 


コメントを読んで考える

長くなったので、こちらに新しい記事として書きます。

「こごと」に関して、何と返信したものか・・とだいぶ悩みました。
適当に「ハイガンバリマス」と書けば何の問題もないのですが、前々から悶々と考えていることと重なってしまったので、そのことを書きます。(別にコメントしてくださった方個人への返信ではなく、僕の考えを書いてるだけなので、コメントしてくださった方の文章にも直接に対応してませんし、攻撃してるわけでもありません。)

ご指摘のとおり、僕は自分の存在意義なんか見えてません。
また、人生に対する真剣さも足りないと思います。
社会一般の建前的にはそれは余り宜しくない事だということもわかっています。
(ついでに言えば、僕は自分自身のことも大して信じていません)
もしも、友達や親兄弟や親族が悲しまない、という前提があるなら今すぐ消えてしまってもかまわない、とすら思っています。

そもそも、何で真剣に、一生懸命に生きなければならないか?という事を良く考えます。(資本主義社会がそのように要請して、そのような教育を昔から受けてきたから、というのも回答にはなりえると思うのですが、社会全体ではなく、僕個人の問題として答えが欲しいのでソレは無しで。)

例えば、仕事なり、趣味なりで目標が設定されたとき(もしくは自分で設定したとき)、僕も取り敢えずはそれに邁進すると思います。しかしそれも一過性のもので、後から考えてみると「なーんで俺はあんなに一生懸命だったのかなぁ・・・」と、(意識の中で)いつでも捨てれるものになってしまいます。目標を設定する、見つけるという事に虚無感を覚えてしまうようになってしまったのです。(細かい考え方の揺れは省きますけども)そうなると、なんでこんなにやる気がでないんだろ?となり、結局は、あの、人類最大の悩みでありながら大上段で言われるといかにも恥ずかしい、「何のために生きてるのか」という事に考えが及ぶのであります。

戯れにGoogleで「生きる目的」と検索してみてください。15万件を超えるようなhitがあると思います。多くの方(おそらく、鬱病の人がメインだとは思うのだが)が同じ様に考えているのか、沢山のそれに関するお答えを目にすることが出来ると思います。
(宗教関係を除けば)結局は「生きるために生きる」とか「自分の幸せ(生きがい)の為に生きる」、「目的を探して生きる」というような事に収束していると思います。

それらの答えを否定する事はしないけど、僕にはそれでは納得できない。簡単に言えば「だって、人って最後には結局死んじゃうじゃん。」という事である。
前に少し書いた事があるんだが結果が変わらないなら、そのプロセス(心中でおもってる事とか)がどうであれ、それは同じことなのではないか、と思う。
「どーせ死ぬんだから好きな事やれよ」といわれても「どーせ死ぬんなら好きなことやらなくても同じはないですか?」と心の中で毒づいて(一応、波風が立たないように口には出さない)しまう位に性格が悪いのですが、それは結局プロセスに重きを置くか置かないかの問題になる。
絶対に負けが確定してる試合で、必死に走り回る選手がいるだろうか?



5月10日(木)03:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理

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