げんしけんを今更読む |
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| 昨晩一気にげんしけんを読んだ。 誰が一番かわいいかといえば、斑目さんである、と答えたい。 別にホモじゃない。 むしろ世の中の女が五割り増しで、増えた分は全部美少女だといいなぁ、と考えている。
そこで急に思ったのだが、どうして私を含む大多数の人は美少女を好むのだろうか。 (目が大きいとか鼻筋が通ってるとかメガネを外すと「3 3」であるとか)造詣は時代時代によって違うし、個人個人の好みも千差万別だが、それも各個人の心中で(あぁ美女だ)と思った人を好む、というのは変わらない。 何かを手にとって(私はコレが好きなのだ)と自覚的に好みを確認するのとは違って、人の顔というのは一瞬見ただけで大体判断してしまう。 まてまて、美醜の感情と好嫌の感情は独立してるんだろうか。 よくわからん。
まず、美醜好嫌判断は個人個人によって違う。これはOKだ。 つまるところ、ワシの疑問は 「なぜ人は『良い』と思うものを好むのか?」 か、若しくは 「ローカライズされた好嫌の判断(「おいしいとまずい」とか「美しいとブサイク」とか)は、大本のシンプルな好嫌とどのように関係するのか」 の二点である・・・と思われる・・・だろうか?
前者については逆に考えればすぐに納得してしまう。 『良い』もの好むのでなく、好んだから『良い』のだと。(法が出来てから善悪が決まるのと同じだね)
後者についてはもっと問題点を明確にする必要がある。(なんとなくその辺がひっかかるなぁ)というだけで、何が引っかかってるのか自分でも良くわからない。この問題は永井均の『これがニーチェだ』で、(食べ物の「良い」はおいしいであり、「悪い」はマズイであるetc これらのことはアプリオリに、)何も調べずに言える、と書いてあり、本を読んだときは(はー、そうなのね、ふーん)位に思っていたが、どうしてもそこは少し引っかかるようだ。というわけで何か思いついたら。
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6月10日(水)16:19 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理
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