胃が痛い |
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| 回顧調のお話やら物語やらで「昔は良かった」方式で「昔」が語られる際、人情があった、だとか子供が元気だった、とか良い面ばかりが語られて、とてつもない貧乏くささだとか、人々のモラルのないエゲツなさ(まぁ、これは今でもだろうが)だとか、負の部分に目を向けていない、という事はよく言われることだ。誰の文章かは忘れたが、「そーゆー事を勘案すると、昔よりは今の方がずっといい」と言っていた人もいた。
昔がよかろうが、今が良かろうがそれは個人の好みなのでどうでも良いのだが、同様の問題は社会のあらゆる事柄に当てはまると思う。 それは、抽象的にいえば「恣意的であるかに係わらず、特定の事柄を取り出して価値判断をする(させる)」という事である。 取り出したモノが、それそのものを説明しているわけではない、というのは南嶽慧譲の頃から言われていた事で、言語や表現の限界というものがあるのはわかる。致し方ない事だ。それは脇に置いておく。
今話したいのは、それらの価値判断が社会的に認められた(認められている)際の問題意識である。簡単に言えば『ゆるい疎外』である。Wikipediaから引用すると
「 疎外(そがい)とは、哲学、経済学の用語としては、人間が作ったもの(商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。 」
という事である。なぜ「ゆるい」がつくかと言えば、「人間が作ったモノ」の部分が「商品・貨幣・制度」などの確固たるものではなく、「こうあらねばならない」みたいな風潮というか、もっと言ってしまえば自分自身の「一般的にはこうあった方がいいんだろうなぁ」という「ゆるい」縛りだからである。
私は今それを肌で感じて、胸がいっぱいで胃が痛いのである。 事情が一筋縄ではなく、説明を詳しく書いてるうちに私の心が折れそうなので詳しくは記述しないが、案件は数日前に書いた「職安に行く」ということである。 これが単純に「毎日穀を潰してウンヌン」とか「働け」とかの問題なら何も疎外を感じることがない。(や、まぁ社会的に「働かなければならない」という事に関して疎外を感じるべきだと思いますし、それは感じています。) 今回持ち上がった問題は、もうっとこう家族内のグチャグチャした内情と、「親や親族は若輩者の進路を心配して当然」みたいな大善提(字の間違いではない)を、ワシの心中ではぶっ飛ばして好きにやりたい、という葛藤があるのである。うむ、何を言ってるのかワカランと思うが、ワシもどう記述して良いかわからん。理解が得られなくても一向にかまわん。
ワシはハッキリ言って、「家族が心配しすぎて干渉しまくると、その子供は無口で何も言わなくなる」という例の典型だ。もう、何かをしはじめる前からアレやコレを言われるのは心底ウンザリなのである。こんな事をいうと「みんなは君のことを心配して~」とお決まりの説教してくる人間がいるが、もうそんなことは10年も前から織り込み済みである。とうの昔にわかっている。この種の問題は、もう中学校卒業付近から延々と、ずーーーっと思い悩んできた実績がある。正直に言えば、天涯孤独の人はこの種の問題に頭を悩ませることがなくていいなぁ、と思ったこともある。それと引き替えに死に直結するような貧困や、拠り所のないとてつもない不安感、世間の冷たさなど、お釣りがくるほどの負の部分があるので、今ではご免こうむりたいと思うが。
まぁ、なぁ・・・悩みのない人間なんていないよ、君だけが苦しい訳じゃないよ、とは言うものの、悩みそのものは厳然として誰の目の前にもあるわけだし、そんな励ましの言葉は誤魔化しだよなぁ・・・
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7月15日(日)23:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理
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