('A`)無気力人間T氏のさわやか日記
 
~大学は卒業したどこかに就職した~生きるのめんどくさい~
 


2008年12月を表示

続き

世界の何処の誰にも「そのものとしての価値」を正確に話す事は出来ない。つまり、普遍的なものとして、価値があるとか価値が無いとか決める事すら出来ない。(や、個人が勝手に決める事は出来ますよ。)
あると言う事も、無いと言う事も、我々が抱える「何が自分の価値観以外に指針が欲しいぜ」病の産物なのかも知れない。(今は「自分の」というのが本当に自分のなのかは置いといて)
あ~、ん~…もう少し時間が立てば違う視点から考えられるような気がする。何か思い付いたらまた。




12月9日(火)01:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | 携帯から | 管理

いよいよわからない

今寝る前にフッと気が付いたのだが、何故ワシは「物や物事には、そのものとして価値がない」などと思ったのだろうか。ワシはワシの価値観(物の見方)からは逃れられないとすれば、如何にワシが公平性や中立性、ニュートラルな立場をとろうとしても認識の際の(自分的)自動補正から独立ではいられないのではないか?「価値がない論」は只単に何かの皮を被せたワシの価値観表明だったのではないか。
人間が各々自分の価値観から離れて(神の視点のように)中立的に物や物事を見る事が出来ないとすれば




12月9日(火)01:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 携帯から | 管理

ところで

一万年と二千年はいいとして、一億と二千年だと二千年の方の桁四つ位違わねぇ?
ま、アニメを見てないので詳しい事はわかりませんが



12月4日(木)08:32 | トラックバック(0) | コメント(0) | 携帯から | 管理

続ものぐさ精神分析を読み始める

以前ものぐさ精神分析が面白い、と書いた気がするが、その続編があるそうな、ということに最近気づいた。なんてものぐさ。
で、早速買ってきてペラペラ読んでいるのですが、これまた面白い。(えっ?ちょっと決めてかかりすぎでは・・・)と思うところもないではないが、面白い。まだ半分くらい。

ライヒやユングを批判するときに「結局奴らは何か人間の精神的な物が問題となったときに、~的な本能が原因だとか、●●の元型(例えばアニマの元型)を無意識に求めた結果、と言うふうに、ただその本能の項目を増やしたり、どっかから元型をひっぱてきて付け足すだけで、なんの解決にもなってない。そーゆー『ワケがわからないもの』に原因を転嫁してるだけだぜ」と言うふうに批判して、まぁそれはごもっともでございますと思う。そしてさらに次の章では「人間の社会は女を商品として扱うことによって成り立っている」という事をこれでもかと書いてあってさらに面白い。よく「女性が社会進出した国は国力が弱くなる」といわれていて、フェミニンな方は大いに怒るのだろうけども、この岸田秀理論だとそれもなんか説明がつくような気がする。(あらかじめいっておくが、このブログを書いてるワシも岸田先生も女性が悪い、といってるのではなくて、世の中がそのような構造になってるから、敢えていえば男も女も社会もひっくるめて「構造」が悪いということを言ってるのです。)
全部読んだらまた感想を。



12月3日(水)21:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理

順調にヤバくなってる

GTA4で車を運転するときには、車の後ろからの視点ではなく、運転席からの視点にしています。(なぜかこちらの方が車のふらつきも少ないし、車と車の間をすり抜ける感覚も実車に近いので楽。)
で、寝る前に2~3時間遊んでから寝るのですが、朝起きて、ベットを転がって床に足を下ろしてふらつきながら起きたときに、なんだかゲームの延長線上で映像が見えてるような気がしてくる。だいぶヤバイ。
さらに、車を運転していても無意識にエンジン音をゲームの中の車と同じようにふかしたりしてしまう。もっとヤバイのはナチュラルにウインカーを出さなかったり、車と車の間を普通にすり抜けようと思って(あっ)と気がついて(あぁ、だいぶワシやばいなぁ)ということが。気をつけねば。余談だがフルアクセルとかしたときのクラッチ切ってギア変える音とかとってもカッコイイ。

所で、GTA4はキャラデザが良くない。主人公のニコや従兄弟のローマン、ロシアマフィアに殺されそうになった所を一緒に戦ってくれたジャマイカンのジャイコブなんかは好きだが、女キャラが全く可愛くない。あんなんだったらガールフレンドとか紳士の社交場(エロダンス屋)とか要らないし。せめてバレットウィッチくらいの女キャラを出して欲しい。ロックスター社は音楽に力を注ぐ前にDOAとか作ってるところから人借りて来いよ・・・と。(音楽がウザイので車に乗ってるときはラジオを切ってる。)新作のミラーズエッヂとか見ても絶望するよ。どんなに映像が綺麗になって、肌のきめ細かさの表現が可能になったとしてもツリ目のエラの張った韓国人顔はお断りなんだよ!海外版ときメモだって。こんなん、こんなん、こんなん(画像は全て『痛いニュース』から)ばっか。なんだよこれ。モンスターハンターか!?


つか、ガールフレンドやら友達の遊びの誘いやらがうぜぇ。こっちは人捜しで忙しいんだっつの



12月3日(水)12:46 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理

前の続き

以前、物自体に、そのものとしての価値なんか無い、みたいな事を書いたが、その続き。
つまり、その物や物事の価値というのは受け取る側が自由に(自由といっても好き勝手ではなく、かなり環境とか育ち方に左右されるんだろうけども)決める。
それは、例えばワシがタマにTVで放送される手踊り王座決定戦とか見ても全く価値がわからないけども、踊りがわかる人が見れば「あぁ、この人はココが凄い」「この人は違う部分がもっと凄い」とかわかる。
つまりその、耳が聞こえない人が鐘の響きを(僅かにあるような肌への音の衝撃波を別とすれば)感じられないように、受け取る側の器というか素養というか、そーゆーものが重要で、それが無ければ、何がどのように素晴らしいかがわからない。それこそ、物凄い大音響の鐘の音を「あれ?なんか衝撃波を少し感じる」程度だったり。
では逆は?
以前、大槻ケンヂの本の中で、とうじ魔とうじの話を引用して、間違った歌の歌詞で感動してしまった事について、後からその間違いに気づいたとしても別に恥じることはない、確かに感動はそこにあったのだから、というような内容のエッセイを書いていて、ワシもそれは非常に正しいと思ったわけ。同じような経験があったから。
普通の人にはそよ風でも通風の人には激痛に感じられるように、錯誤や過大評価、過小評価があったとしてもそれは全く普通のことだし、別に恥じることではない。(そもそも日本で「恥じる」というのは 「皆と違う」事を恥じている事が多い。そうだ、アレだよアレ。畜群だよ。)
むしろ人と同じ物を見て違うものを受け取る感受性が羨ましいよ。

で、結局何が言いたいかというと、(上っ面じゃなく)何に対しても、あれはアーで、これはこーで、それはこんなに凄い!
と(利害とか一切関係なく)積極的に意味を与える事が出来る人が羨ましい。
もっと言えば好奇心と元気の固まりのような幼稚園児&小学校低学年のガキが本当に羨ましい。
ワシは「本当のところは」とか「世間的には」とか、自分の価値基準以外の所によりどころを求めてしまう。それはどんなに頭ではわかっていても、気にせざるを得ない。そのように育てられた、とか世間がそうだから、と言ってしまうのは簡単だが、別に責任を他に求めたところでどうにかなる問題ではない。
もっといえば、「『そのもの』として価値がない」とうのを根本原理として捕らえてしまった事が大きな原因かもしれない。何かに熱狂したとしても、最終的には「ま、それは(自分も含めた)誰かが与えた価値だから」とか「どうせ死ぬんだし」という事に帰結してしまう。何てつまらない。
なにか、それ(『結局は意味がない』と言う考え)を超える物はないだろうか。



12月2日(火)18:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理


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