('A`)無気力人間T氏のさわやか日記
 
~大学は卒業したどこかに就職した~生きるのめんどくさい~
 


2009年8月2日を表示

疲れてる

週末だと言うのにやることテンコ盛りで(といっても会社の業務ではないが)、寝たのは日曜の朝五時。
えーっとですね、会社で9時間、家に帰ってから9時間、と通勤に2時間、と土曜朝から(数時間の休憩を除いて)20時間ほど働き詰めで、目が覚めたら日曜の午後一時ですよ。で、そこからオバァの買い物で、やっと今一息ついたところです。忙しすぎるだろ常識的に考えて。
今まで自由時間が24時間だったフリーダム生活だったのに。
土曜夕方には急がしくて死にそうになってるトコにI股訓から虎の家のオヤジ情報やら、「今日のチャンピョンは濃ゆくてウマウマ」だとメールが来て死ぬほど羨ましく感じたり。
…『サマーウォーズ』見に行きたいぜ!!
というわけで未だに日々の時間配分をイマイチどうしたらいいのか良くわかりません。


と、泣き言はそのくらいにして前に疑問に思った事に少しヒントが出てきたので。

前にローカライズされた好嫌の判断(「おいしいとまずい」とか「美しいとブサイク」とか)は、大本のシンプルな好嫌とどのように関係するのか」
と言うことに違和感を持っているみたいな事を書いたが、会社で作業しながらも違うことを考えていたら急に「意味は個別性に依存する」という事が閃いた。
つまり、意味(や判断や認識)はそのものとして単独では絶対に「存在」できない。(この「存在」は物理的にということじゃないよ)
いわば、日向(ひなた)に物を置いたときにできる影みたいなもので、必ず何かに付随する。
だから、影(意味)そのものを、モノに付随する属性として扱って、その属性として個別に議論することは出来るけど、物抜きで影(意味)そのものを取り出して他の影と比べたりするのはおかしいのではないか、というのがたぶん最初に持った違和感を端的に説明した内容になると思う。
書き方がまずいので良くわかって貰えないと思いますが、要は「色々な物の意味の、「個別性」を排除するのは乱暴すぎるのではないか」と言うことです。

だから、前の文章の永井先生の話で言えば
「ここにリンゴがあって、「おいしい」か「まずい」かでいったら「美味しい」であり、「美容に良い」か「美容に悪い」かでいったら「美容に良い」である。で、この場合「おいしい」と「美容に良い」は「良い」というイメージを持つ同一グループに分類できる」
という主張になります。

で、ワシの考えとしては
「リンゴの「おいしい」は結局「そのリンゴのおいしさ」という唯一孤高のものであり、スイカや梨や、他のリンゴとの対比は出来ないし、ましてや「美容に良い」などという価値観とは並べられない。全ては個人の判断に依存していて、『一般的な』と言ってしまうのは言い過ぎでは?」
と。
…あれ?なんか結構フツーの事いってるな。

忘れて下され。自分がなんとなく思っていたことを解明していって「幽霊の正体見たり枯れ尾花」だったらスンゲー拍子抜けするよな。

毎日、ネットのニュースサイトを巡回して情報を知る時間も惜しいほど時間が無いので、速読が身に付きそうです。…すいません嘘つきました。ただの「ナナメ読み」スキルです。



8月2日(日)17:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理


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