('A`)無気力人間T氏のさわやか日記
 
~大学は卒業したどこかに就職した~生きるのめんどくさい~
 


2009年1月28日を表示

科学はどのような位置づけに

オバマの環境に対する演説内容と麻生総理の環境に対する施政方針の対比みたいなことをおもっいきりテレビのニュースコーナーで比較していた。
オバマは、イデオロギー優先で科学的な事を無視して特定団体の利益を優先していた前政権のものを改めていく、みたいな事を言ってたのだが(特定団体→自動車業界、らしい。ワシはまた某キリスト教系団体かと)、科学というのはそんなに絶対的ものなんだろうか、とその時は思った。
しかし考えてみると純粋な科学そのものには「どうなっているか原因を探る」以外のベクトルは無い。だから、いいか悪いかは別にして、「科学的には~であり、だから○○するべき」というときにはソレを言わせるためのイデオロギーが必ず存在する。
相手を思いやったり、人道的観点、環境保護思想のみならず、世界を破滅させるようなちょっとアレな考え方など、別に善悪の区別無く様々なものが後ろに隠れている。「科学的」な事に目を奪われがちだが真に見極めるべきは、その人が何をバックボーンとして科学的事実を持ってきたか、だと思うだよ。(そしてあなたがどのようなバックボーンを持ってそれを受け止めるか)

だから、今ここでの結論としては「科学的事実」というのはただ理由を補強するツール以外にはならない、という事。
まず、姿勢や考え方ありき、である。(その姿勢や考え方の中には、科学的事実を重視する、という考え方も含まれる。だから最初から科学的事実を重視しない、科学的事実のうち都合の悪いものは信じない、という事も十分ありえる。)

ところで、オバマさんはイスラム教からキリスト教に鞍替えした人だそうだが、ただ寄る辺を変えただけの人なのではないか、と少し思う。
そもそも、キリスト教に限らず、仏教やイスラム教の人も、なんで宗教を信じるのだろうか。例えば、仏教関連の本を読んでいると、お経が覚えられなくて散々苦しんでいたところ、夢に不動明王が現れて自分の喉を剣で貫いて、それ以来お経が覚えられるようになった、とかいう話があるのですが、そういうような体験をしたなら、○○を信じるようになった、というのにも納得できるし、その体験にしたがって生きるのも十分アリだと思うのですが、別段、なんの体験もなく、ただ生まれてからそのように教え込まれてきただけで○○を信じて、それにしたがって生きる、というのは凄く馬鹿らしく思える。



1月28日(水)20:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | 無題 | 管理


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